『ぼくらの中の発達障害』の感想


2年前に下書き保留にしていた文章を手直ししてアップします。


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『ぼくらの中の発達障害』を読んだ。

著者は岡山県の大学病院(出版当時)で精神療法、思春期青年期を専門にされていて、発達障害にも詳しい先生です。

 

著者の先生が本書のなかで読む人にもっとも訴えかけてるところを書かなきゃなあと思ってたら、何回も読み直したあげくに、挫折しかけているので、要約もなく一番印象に残ったところの話だけ書いてみます。

 

まずこの本は主に広範性発達障害について書かれているそうですが、広汎性発達障害というものがどういう概念なのかよく分かっていなかったから、本書から引用することにします。

 

『(…)そのため、ただ自閉症と言うとその範囲がかなり狭いので、自閉症だけでなく、アスペルガー症候群高機能自閉症(知的な障害を伴わない自閉症)など、自閉症傾向を認めるものを幅広く含んで総称する必要があり、広汎性発達障害(Pervasive Developmental Disorders,PDD)という概念が生まれ、よく使われるようになってきた。なお最近は広汎性発達障害という言葉の代わりに、自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorders,ASD)と呼ばれることも増えている。』

 

です。

 

 

注意欠陥・多動性障害も学習障害も広汎性発達障害を併発しやすいことが言われているから、本書に書いてある見方や考え方が役に立つことが多いと思う、とも書かれているので、いろんな人の為になるかもしれません。

また、誰にだって発達障害的なところは持ってるもので、それは固定したものじゃなく、生活する環境によって現れたり消えたりするものでもあるよ、ということが書かれてあるので、それがタイトルにある「僕らの中の」発達障害という考え方なのだと思います。

 

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印象に残ったところを紹介します。


 

『コミュニケーション能力は、正確に意思疎通するための、あくまで道具である。だが、それ以上に大切なのは、相手に「何」を伝えようとするかだ。この「何」について、真剣に考えないままに、いくらコミュニケーション能力と言ってもダメなのではないか。人に伝えたい「何か」を自分の内に育む。これこそが求められているものではないだろうか。僕がロンドンで苦しんでいた時も、英語だけに困っていたのではなかった。本当に困っていたのは、僕が人に伝える「何か」を見つけられない、ということだった。言葉はあくまでツールだ。問題は、言うべき「何か」を持っているかどうかなのだと、僕はしだいに思うようになった。』

 

自分の生活の中で思うところがあったからこの部分を引用しました。


この「何」とか、伝えるべき「何か」は「自分の意見を持とう」的な「意見」のようなものとは少し違うものだと思う。恐らくもっと中心にあって純粋なもの。

それは、こころにポッと生じたけど言葉にならずにかき消される「何か」。

相手に伝えたいからこころに生まれたはずの純粋な「何」を、出来るだけそのまますくい上げて、言葉という舟に乗せて相手に伝えようとすることを、自分は今まであまりしてこなかったんじゃないかと思う。

言葉を発しているときにはその「何か」がまったく別のものに変わってしまうのも、それはまた別の「何か」のせいなんだと思うけど、そんな「何か」がたくさん積み重なれば、いったいどれを引っ張り出して相手に差し出したらいいのか分からなくなってしまう。

人との会話で、いつも相手と通じてないような楽しくないうんざりすらする感情に纏われているのは、言葉になるくらいしっかりした「何か」を持てなかったことと、それなのに言葉を差し出してしまっている事態に対する失望なんじゃないかと思いました。

 

出来るだけ形を壊さずに言葉にして出せるように、比較的安心して話せる人とか趣味が合う人と話す機会に少し意識していきたい。

相手の問題でも自分と相手の折り合いの問題でもなくて、自分のコミュニケーションの問題がまず最初にあると思っていた方が、人とうまくやっていくには近道な気がする。

 

全体を意識して書くのは難しくて、書きたいことがいい感じに書けなかったような気がしますが、頭がパンクしそうなのでここらへんで終わろうと思います。