病院に行ったこと

大阪のクリニックからもらった紹介状を持って病院に行った。

自立支援医療のこともあってどこの病院(クリニック)に行こうかと迷ってたけど、こっちで少し縁のある病院に行くことにした。

光トポグラフィー検査という臨床研究に参加するために、8年前に何回か通った病院で、この検査は、健常者、うつ病双極性障害統合失調症がそれぞれ違った脳の波形を示すことで、患者がどれなのかを示す検査。

当時の自分は、うつ病として治療すればいいのか双極性障害として治療すればいいのかよく分からず、薬の副作用にばかり悩まされていたので、テレビで見たこの検査が出来る病院を探してやってもらってたのだ。

エビデンスがまだしっかりしてない段階だから臨床研究という形な訳だけど、一応、毎回医師の診察もあって、検査結果のフィードバックも受けられる。それの為に、半月に一回くらい上京してた。

それで今回、その病院にかかることにした。

ちなみに、当時の光トポグラフィー検査の結果は、双極性障害の人に見られる波形に似ていることが多いみたいだった。そうじゃないときもあった。結局はっきりはしないけど、100%診断できる検査ではないらしいから仕方がない。

今回、病院にかかったら、以前、検査で診てもらってた先生に同じく診てもらえた。知ってる先生で安心。今までの治療のこと、生活のことを伝えた。

しばらく積極的な投薬治療はしてなかったけど、今回薬が出た。

これがダメなら次はこうしようという話もしてもらえて安心した。

治療にコミット感が久しぶりに湧いてきた。

『ぼくらの中の発達障害』の感想


2年前に下書き保留にしていた文章を手直ししてアップします。


−−−−−−−−−−−−−−−−−


『ぼくらの中の発達障害』を読んだ。

著者は岡山県の大学病院(出版当時)で精神療法、思春期青年期を専門にされていて、発達障害にも詳しい先生です。

 

著者の先生が本書のなかで読む人にもっとも訴えかけてるところを書かなきゃなあと思ってたら、何回も読み直したあげくに、挫折しかけているので、要約もなく一番印象に残ったところの話だけ書いてみます。

 

まずこの本は主に広範性発達障害について書かれているそうですが、広汎性発達障害というものがどういう概念なのかよく分かっていなかったから、本書から引用することにします。

 

『(…)そのため、ただ自閉症と言うとその範囲がかなり狭いので、自閉症だけでなく、アスペルガー症候群高機能自閉症(知的な障害を伴わない自閉症)など、自閉症傾向を認めるものを幅広く含んで総称する必要があり、広汎性発達障害(Pervasive Developmental Disorders,PDD)という概念が生まれ、よく使われるようになってきた。なお最近は広汎性発達障害という言葉の代わりに、自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorders,ASD)と呼ばれることも増えている。』

 

です。

 

「そのため」で始まって一体どのためだよ!と思われそうだけど、引用というのも難しいので許して。(もう挫折しそう)

 

注意欠陥・多動性障害も学習障害も広汎性発達障害を併発しやすいことが言われているから、本書に書いてある見方や考え方が役に立つことが多いと思う、とも書かれているので、いろんな人の為になるかもしれません。

また、誰にだって発達障害的なところは持ってるもので、それは固定したものじゃなく、生活する環境によって現れたり消えたりするものでもあるよ、ということが書かれてあるので、それがタイトルにある「僕らの中の」発達障害という考え方なのだと思います。

 

f:id:abotdiary721:20180610135536j:plain

 

では、印象に残ったところを紹介します。


 

『コミュニケーション能力は、正確に意思疎通するための、あくまで道具である。だが、それ以上に大切なのは、相手に「何」を伝えようとするかだ。この「何」について、真剣に考えないままに、いくらコミュニケーション能力と言ってもダメなのではないか。人に伝えたい「何か」を自分の内に育む。これこそが求められているものではないだろうか。僕がロンドンで苦しんでいた時も、英語だけに困っていたのではなかった。本当に困っていたのは、僕が人に伝える「何か」を見つけられない、ということだった。言葉はあくまでツールだ。問題は、言うべき「何か」を持っているかどうかなのだと、僕はしだいに思うようになった。』

 

自分の生活の中で思うところがあったからこの部分を引用しました。


この「何」とか、伝えるべき「何か」は「自分の意見を持とう」的な「意見」のようなものとは少し違うものだと思う。恐らくもっと中心にあって純粋なもの。

それは、こころにポッと生じたけど言葉にならずにかき消される「何か」。

相手に伝えたいからこころに生まれたはずの純粋な「何」を出来るだけそのまますくい上げて、言葉という舟に乗せて相手に伝えようとすることを、自分は今まであまりしてこなかったんじゃないかと思う。

言葉を発しているときにはその「何か」がまったく別のものに変わってしまうのも、それはまた別の「何か」のせいなんだと思うけど、そんな「何か」がたくさん積み重なれば、いったいどれを引っ張り出して相手に差し出したらいいのか分からなくなってしまう。

人との会話で、いつも相手と通じてないような楽しくないうんざりすらする感情に纏われているのは、言葉になるくらいしっかりした「何か」を持てなかったことと、それなのに言葉を差し出してしまっている事態に対する失望なんじゃないかと思いました。

 

出来るだけ形を壊さずに言葉にして出せるように、比較的安心して話せる人とか趣味が合う人と話す機会に少し意識していきたいですね。

相手の問題でも自分と相手の折り合いの問題でもなくて、自分のコミュニケーションの問題がまず最初にあると思っていた方が、人とうまくやっていくには近道な気がします。

 

全体を意識して書くのは難しくて、書きたいことがいい感じに書けなかったような気がしますが、頭がパンクしそうなのでここらへんで終わろうと思います。

 

 

 

虹プロのマコちゃん

朝の情報番組のスッキリの中でやってるオーディション番組「虹プロジェクト」のコーナーをこの頃楽しみにしている。日本全国で行われたオーディションを勝ち上がってきた少女達が、第2のTWICEを目指して(?)、パク・ジニョンさんというTWICEや2PMといったアイドルグループを手がけてきた有名プロデューサーから愛情のある指導を受けながら(課題ごとにキッチリ順位もつけられながら)頑張ってる様子を放送しているのだが、なかなか好評のようで、スッキリでの放送直後には、ツイッターのトレンドランキングで虹プロジェクト関連のワードが上位に連ねるほど。全編はHuluで随時放送中。

それはさておき、メンバー最年長のマコちゃんは感心するほど立派で素敵だなと思って見てる。

誰よりも努力する。ダンス・歌ともに一番実力があるメンバーの一人。まさにリーダーというべき存在だけど、ノリがよくて周りに気が遣えて思いやりもある。

こんな素敵な子が妹だったらと想像する。いや、こんな素敵な姉がいたらいいなとも思うし、自分の娘だったらなとも思う。こんなことを考えていると、ふと疑問に思うことがあって、それは、関係の違い(妹として、姉として、娘として等)で自分にとってどれくらい理想に近づいたり遠のいたりするもんなのだろうか、ということだ。人の魅力をどういう理想として捉えているのか。誰かを素敵だなと思ったときに、妹でも姉でも彼女でも母親でも、なんにでも当てはめて理想としてしっくりくるということはないはずで、一番しっくりくる関係というものがあるはずだと思って、完全な自己満足だが、そのことについてブログを書き始めた。


マコちゃんについて言えば、画面の向こうの人をちょっと見ただけで何が分かるのかということなんだが、最初から通して見ていると、やっぱり人の真実が現れてくるようなときがあると思って見ている。椅子取りゲームのときに、マコちゃんが、自分と相手をケガさせてしまうくらいにガチでイスを奪いに行っていたけれども、そんな負けず嫌いな一面と同時に、合図の笛が吹かれるまでは、椅子と自分との距離など気にせずに、音楽に合わせてノリノリで周回していたシーンなんかは、とても感心したし、人間が現れてるなあと心に留まった場面だった。人柄をまるごと知ることなど到底出来ないけど、魅力というものは隠すことが難しい。



【母親、娘、姉、妹、幼馴染、恋人、女友達、妻、上司】

母親 ★マコちゃん
娘   マコちゃん
姉   マコちゃん
妹   マコちゃん
幼馴染 マコちゃん
恋人  マコちゃん
女友達 マコちゃん
妻  ★マコちゃん
上司  マコちゃん



これは何かというと、虹プロメンバーの中で、それぞれの関係で一番しっくりくると思う人を挙げてみたら、全部マコちゃんだったという表だ。
(なんじゃそりゃ)

その中で最も理想の関係は母親か妻だった。

考えてみたが、この二つを選んだのは、単純に関係の比重の大きさから来るのではと思った。ある程度は自分自身がどの関係に重要性や執着を感じているか、というのもあるし、それを知りたくてこんなものを書いているんだけど、一般的に言って、母親も結婚相手も関係性としては重大で、自然にそこに収まりやすいのではと思ったのだ。しかし、その場所にしっくりと収まるということが大事なことなのではないかとも思った。

それから姉や妹について思ったこと。あんな努力家で気遣いや思いやりがある姉/妹がいたら勇気づけられるし可愛いなとも思ったけど、やっぱり違うなと思った考えを書いてみる。
自分は兄と姉がいるのだが、自分にとって兄弟はとても大事で特別な存在に感じている。仲が良いかというと大して仲がいい訳ではなくて、気兼ねなく楽しいお喋りをしたりすることもないのだけど、どうして特別かと言うと、自分の歴史に一番肉薄して生きてきた存在が兄弟だと思ってるからだ。特に子供時代を一緒に過ごしてきて、兄弟だからこそ辛いことも一緒に経験したり、一番近くで見てきたという感覚がある。辛いことが多かったからまさに同士と言える存在で、それなのに辛い状況にあればあるほど、兄弟というのは助けあえず、お互いを疎ましく思ったり傷つけてしまったりするものだった。大人になっても、会えばかったるい会話しかしないのだけど、お互いのことなんか気にかけていないようで、お互いのことをお互いが一番分かってるという感覚があると思っている。好き嫌いではなく、同士でありお互いが物言わぬ歴史の証言者。そういう意味で特別なのだ。では、それほど特別に思っているのに、どうしてマコちゃんが姉や妹として親や妻以上にしっくりこなかったかと言うと、今言った意味での特別さ以上の美しいものは残らないと思ったからだ。自分自身の家族関係、兄弟関係の外で兄弟を想像することが出来なかったから選ばなかった。

娘については親と妻の次にしっくりくる関係だった。自分の娘があんな子だったらどんなに誇らしいかと思う。自分自身の課題に集中することに長けてるのに気遣いが出来て、年齢関係なく打ち解けられて、はしゃぐときは誰よりも楽しそうにノリノリになってるところが最高だ。とはいえ、自分の子供に望むことは、振る舞いに無理がなくて元気に育って欲しい、くらいのもんだから、まあマコちゃんはとてもそれに適っていると思うし、それに、そういうことなら彼女じゃなくても良い。そもそも、子供は持って生まれた素質や性格がある様だけど、環境や人との関わりで人格が形成されていく面が強いのだから、高校生くらいの既に出来上がっている人間を勝手に自分の娘として当てはめて親子関係を想像するのはどうかと思ってきた。

女友達としては、好きになるんじゃないかと思うからダメで、恋人としての方が理想だ。それなのに恋人に☆をつけなかったのは、けっきょく可愛くて女性として好きなだけじゃねえかと思われては面目がないと思ったのも大きい。それに、マコちゃんは刹那的な性格ではないと思うから、どんな感じで自分の未熟な恋心が寄り添うんだろうとか、盛り上がるんだろう、みたいなことを考えると、難しい想像だった。だからやっぱり恋人よりも夫婦関係としての方が理想だ。

幼馴染。どうでもいい想像な気がしてきた。

上司。最初にマコちゃんの人物の説明を書いたが、素晴らしい上司になってくれると思う。


このエントリーはなんなのだ?

ちゃんと生活する宣言

退職してからヒドい生活を送っている。

こんなにちゃんとした事が何も出来ない生活を続けてしまっていて全然ダメだ。

辛いのに変われない。

こうやったら楽になるんじゃないか、というアイデアはたくさんあるのに一つもやってない。他人事じゃなくてこれは自分のことで、辛いのだからどうにかすればいいのに何もやっていない。

自分のことが本当にマヌケだと思う。

だからこそこんな状況になってしまっている。

危機感を持って悪い習慣は断ち切って、ちゃんとした生活をしていく必要がある。

じゃなかったらどうなってしまうんだろう。

変わりたい。

深夜ウォーキング

久々に夜のウォーキング。

23時30分くらいの地下鉄烏丸線に乗って四条駅で降りた。京都駅で降りるか迷ったけど、帰りやすさと深夜の四条通りを歩いてみたかったのとで、降りる寸前までそわそわ迷いながらもそっちを選んだ。いつも必要のないところで選択に迷う。

晩御飯を食べにすき家に入った。京都で一番賑わってるところとは言え、深夜だから人も少ない。牛丼健康セットを注文。外国人の店員さんが、リンゴがないからポテサラになると言うので、リンゴがあっての「健康」セットだと思ってるから、サラダセットに変更して食べた。

飯を食ったら行くとこも開いてるお店も特にないから真っ直ぐ家に向かって歩いた。

今日は寒くてもっと防寒してくればよかったと思ったけど、それ以上に、2年以上毎日履き続けてる靴が限界を迎えて、かかとのプラスチックのプレートみたいなのがボロボロ取れてきてて穴が空いたりもしてる。それが気になってちゃんと歩けない。そのせいでソックスの消耗も早かったりする。それからもっとシンプルに問題があって、靴のサイズが大き過ぎる。靴ひもを強く結び直して歩いた。

靴にしてもズボンにしても、使ってるうちに馴染んでくるのか、買ったときは丁度いいくらいと思ったのが、けっきょく大き過ぎだったということがよくある。ちょっと大きかったではなく、大き過ぎだったということが。

途中コンビニでコーヒーを買って飲みながら歩いた。そのまま両手で持って持って手を温めたり、服の内側に入れてお腹を温めたり、片手で握ったままジャケットのポケットに入れてお腹に押し付けたらどっちも暖かいなあ、なんて発見をしながら歩いた。

家の近くまで戻ってきて飲み干したボトルを捨てるために、またコンビニに入った。

なんとなしに手に取ってみた乃木坂の齋藤飛鳥が表紙の、ポップでファンシーなファッション雑誌を見てたら、どのファッションも素敵だし、ロマンティックな気持ちになるようなのもあって、買っちゃおうかと思ったくらいだった。

レースのスカートにポツポツが付いた服を着てるのなんかがグッときた。

そのあと名作椅子特集の雑誌と、温泉の雑誌を見てたら、微妙な変化だけどいつもよりいろいろと興味を持てるのに気が付いて、ウォーキングをしてコーヒーを飲んだことで気分が高揚してるんだと分かった。

こういうタイプのエンジンがかかったことは何度もあって、意欲が湧き出るから状態が上向いてると思ってしまうんだけど、それと同時になんとも言えない不快感が起こったり、興奮してる分だけ落ち着きを失ったりして、全体的に見ればこれを強くしていい方向に持っていくということは無理に思うから期待しない方がいいのだ。今までの経験上そうだった。バランスよくいい感じになればいいな。

コーヒーのせいで家に帰ってすぐうんちがしたくなって、何日か便秘だったから良かった。それから朝まで30分おきにオシッコをした。干からびそうだ。

大文字焼き

f:id:abotdiary721:20181023230644j:plain

f:id:abotdiary721:20181023230613j:plain

f:id:abotdiary721:20181023224059j:plain



ちょっと前にスマホの画面の上の方にヒビが入ってしまった。

夜中に散歩をしてて急に雨が降ってきたので走りながらスマホをポケットに閉まってたら、本当はポケットに入ってなくてアスファルトの上に落ちてしまったのだ。

ちょうど画面の中に入らない左上端のヒビだからけっこうセーフで、スマホを見るのにほとんど邪魔にならないのがまあ助かった。

むしろ落としたときにヒビを見てから気に入ったところがあって、それはヒビの見た目が「大」に見えるから。


「あ、大文字焼きだ」


と思った。(ホントか?)

ホント




実は今年の夏に大文字山にトレーニングで登ったことがある。

そのときは銀閣寺の横をひょこっと行ったところの登山口から登っていくルートで、確か1時間半くらいで登頂できた。

大の字の火床は頂上より少し手前のところにあって、頂上と同じくらい 頂上にきたー!っていう気持ちになれる。そこからは京都市内が一望できる。

それで大の字はというと、大きな火床が一定間隔で置いてあって、それを遠くから見たら大の字に見えるんですね。

送り火のときは火床に一斉に火を点して暗闇の中に赤く灯るのだ。


鴨川デルタ辺りを見つけて、
いつもあそこから見える小さい大の字は本当はこんなのになってるんだなぁと感心した。

お盆には実際に大文字焼きを見れたので、ふむふむと思いながら見ていた。



そんなこともあって、このスマホのヒビはお気に入りになった。そんなにきれいに「大」の文字になっているわけではないけど。

大文字山の「大」の字の火床目指して南禅寺辺りからまっすぐアタックしたら目の前に現れてくるような「大」が刻まれてる(そんな登山ルートないと思うが)。

だから最後の払いが豪快に目の前に現れてきてるような感じで迫力満点なのだ。

書道家がパフォーマンスですごい大きい筆を持ってすごい大きい紙の中に立って即興で何かを書くときのものすごい豪快な筆使いのような、そんな渾身の払いのように感じる、


そんな「大」


インカメラが使いづらくなったけど、これはある意味ちょっとした奇跡だと思った。

ニフレル

こんにちは。

先日、大阪の吹田市にあるエキスポシティに行ってきた。

万博公園に隣接するエキスポランドの跡地にエキスポシティが出来て、ららぽーとがあったりガンバ大阪の本拠地の吹田サッカースタジアムがあったりするところだ。

その敷地の中にある、海遊館プロデュースのニフレルという水族館を観てきたのだ。

 

大部分が水生生物の展示だが、動物がいたりアート空間があったりするのでいろいろ合わさったアートで体感型の水族館(?)っぽい何かということです。

ニフレルという名前の由来は「~にふれる」という言葉から来ていて、それぞれのゾーンで「形」にふれたり「色」にふれたり「技」にふれたり…

 “体感する” というコンセプトの水族館のようだ。

 


f:id:abotdiary721:20180214072556j:image

 

「すがたにふれる」ゾーンでは面白い見た目をした生き物を展示していた。

 


f:id:abotdiary721:20180214072847j:image

 

チンアナゴ

砂ではなく透明なゲルのようなものを敷き詰めてあって、中に埋まってるんだなあ…ということがよく分かる。

 

こちらは「技にふれる」ゾーン。


f:id:abotdiary721:20180214073141j:image

 

見た目は平凡だったから名前を忘れてしまったが、技がすごい。

スタッフさんが手を伸ばしてエサをポールに貼り付ける。そうすると魚が口からピュッ!と水鉄砲を撃ってエサを撃沈させる!しかもかなりの成功率。飛んでる昆虫を撃ち落とすって言うんだからそりゃすごい。

ちなみにこの水槽にはその魚がめっちゃいるんだが、たぶん撃ち落とした魚はほとんど自分でエサを食べられてないでしょうね(笑)

 

 

 

そしてもはや定番のアレを私も体感してきた。

 

 

 

 

 


f:id:abotdiary721:20180214073940j:image

 

うおおおお!!!!喰われるー!!!

…って嬉々として食われまくってたんだが、隣にいた小学生の男児に後ろから見てたお母さんが、

「あんた待ってる人おるんやからいい加減どきや!!いつまでやってんねん!!!」

と言っていて、自分の方が怒られたみたいで恥ずかしくなって退散…

 

指が無くなるまでやりたかった。

 

 

f:id:abotdiary721:20180214074609j:image

 

光のインスタレーション空間。

虚像に魅入られてはしゃぎまくる子供達。

 

 


f:id:abotdiary721:20180214074816j:image

 

生き物とアートにふれるゾーンでは鳥や動物たちが出てくる。

 


f:id:abotdiary721:20180214074938j:image

 

ちょうどご飯のタイミングだった。

このゾーンの特徴はサルやペンギン、鳥類が檻に入っていないところだ。

 


f:id:abotdiary721:20180214075208j:image

 

このニワトリみたいな鳥もこの部屋の中では自由。

 

「すいません足下気をつけてください!!!!」

と近くのスタッフさんに早口で言われて、人混みの中で足下を見たら、この鳥が佇んでて危うく蹴るところだった。

 

 


f:id:abotdiary721:20180214075830j:image

なんとかわいい格好で寝てるんだろう、ホワイトタイガー。

展示室もかっこいいですね。

もちろんここはガラス張りだが、この水辺にも魚達が泳いでるので外からホワイトタイガーと魚を同時に楽しめる。

 


f:id:abotdiary721:20180214083038j:image

ぜんぶ見終わって夕方。楽しかった。

 



f:id:abotdiary721:20180214080428j:image

 

すぐ側を中国自動車道が通っている。

実家から大阪・京都に行くときに高速バスでここを通るんだけど、この辺りを通る度に心が沸き立つ。

山とベッドタウンというところで静かな感じに思えるけど、広い外の世界へ向かうぞーという雰囲気を感じるからだと思う。

 

ニフレルよかった!

それではまた。